松右衛門帆復活物語

230年前の発明品に新たな命を吹き込む!

   ~先人の知恵と現代人の知恵とのコラボによる地域活性化大作戦~

(はじめに)松右衛門帆との出会い

 ゆったりと流れる加古川の河口の西隣に位置する兵庫県高砂市。景勝を称える多くの和歌や謡曲「高砂」でも知られる歴史ある町である。

高砂市近景

 

 温暖な気候と資源に恵まれ、古来より、漁業、製塩、採石、綿の栽培などが盛んに行われた。江戸時代には、加古川の流れを活用して地域の産物を集めて兵庫や大坂などに運ぶ、という船を活用した流通で栄えた。明治維新後は、工業用水の確保や交通の便の良さに注目した大企業が進出し、昭和の高度成長期には、沿岸の埋め立て地に大規模工場が建ち並び、播磨臨海工業地帯の中核を担う工業都市となった。地元の商店街も、大いににぎわい、活気に溢れていた。


 しかし、他の地方都市にも見られるのと同様に、少子高齢化や不景気のあおりをうけて町の活気はしだいに衰え、近年の商店街ではシャッターや空きスペースが目立ち、放置されて崩れかけた古い建物が目につく有様となった。


 このような状況に危機感をもった地元の青年事業家のグループは、2009年に「高砂ブランド協会」という組織(2011年に「特定非営利活動法人 高砂物産協会」に変更)を立ち上げて、高砂市に活気を取り戻すための活動を開始した。翌2010年には、

 

230年前に発明された帆布松右衛門帆を復元し、

新しいブランドとして世に送る

 

  という、ロマン溢れる航海をスタートさせた。


工楽松右衛門像@高砂神社
  工楽松右衛門像@高砂神社

 「松右衛門帆」とは、江戸時代の中期(1743年/寛保3年)に高砂(現在の高砂市東宮町)で生まれた工楽(くらく)松右衛門なる人物によって発明された廻船用のマストである。

 当時の日本で織れる綿織物は、浴衣程度の厚みのものしかなく、その薄い木綿布を重ねて刺し子のように縫い合わせた「さし帆」が使用されていた。さし帆には、水をふくむと重くなり、また破れやすいという欠点があったが、松右衛門は、試行錯誤のすえ、太い糸により織られた一枚物の帆布を織り上げた。

 1785年(天明5年)・松右衛門42歳のときのことである。

 

 完成した帆布は、軽くて丈夫で水切れも良いと大変な評判となり、自然に発明者の「松右衛門」の名で呼ばれるようになり、たちまちにして当時の船乗りたちに広まったという。

松右衛門がどのような人かや松右衛門帆が当時どのように使用されたのかについては、「松右衛門帆物語~番外編~」を参照されたい。

 明治以降、大型船の形態が帆船から機械を動力源とするものへと移行してゆくにつれて、松右衛門帆はすたれ、松右衛門の生誕の地である高砂からも姿を消した。

 工楽松右衛門という高砂出身の偉人の名を知る人も少なくなった・・・

 

 実を言うと、高砂物産協会のメンバーらも「松右衛門」の「ま」の字も知らない、という有様であったが、地域活性化のためにはまず地元の歴史を知らねば・・と調べていくうちに、松右衛門と彼によって日本で初めて織られた帆布に行き当たった。

 

 ただ、初めのうちは、「帆布発祥の地」と掲げて、下の写真にあるような、普通の帆布による製品を販売する程度の発想しかなかったようである。


現代に流通する一般帆布

 そんな彼らの考えを変えたのは、

 帆布の製作に際して彼らからの相談を受けた神戸芸術工科大学野口正孝教授からの

現代の帆布ではなく

当時の帆布をちゃんと調べてそれを復元することを

検討しませんか・・・

という提案であった。

 

 現代の帆布とは構成が大きく異なり、発案者の生誕の地である高砂市にさえ残っていないほどの希少なものであると知った高砂物産協会のメンバーらは、野口教授に協力を仰いで、松右衛門帆を復元する取り組みを開始した。


取材協力

  特定非営利活動法人 高砂物産協会 様

 同協会 理事長 柿木 貴智 様

 神戸芸術工科大学 教授 野口 正孝 様 (芸術工学部 ファッションデザイン学科 主任)

 兵庫県立歴史博物館 様

 

参考文献

 司馬遼太郎著「菜の花の沖(二)」(文春文庫)

 高砂市教育委員会 編集・発行「風を編む 海をつなぐ 工楽松右衛門物語」

 「高砂市の概要」(高砂市役所ウェブサイト

 「高砂市紹介」 (高砂市観光協会ウェブサイト