工楽松右衛門は、15歳で高砂から兵庫に出て、一介の船乗りから身を興し、船頭、事業家、そして発明家として名をはせた。その後、江戸幕府の命を受けて、択捉島の築港工事を手がけて成功させ、功績を称えた幕府から、「工夫を楽しむ」という意を持つ「工楽」という姓を授かった。その後も、函館の港作りやドックの築造工事、故郷高砂の港の改修工事、鞆の浦の防波堤工事など、亡くなる直前まで大がかりな課題にチャレンジし、成功させた。歴史に名高い高田屋嘉兵衛も、松右衛門に見いだされ、松右衛門の“人となり”に大きな影響を受けて成長した。
松右衛門帆に関する発明の骨子は、当時は思いもよらなかった広幅の帆布を織るための織機を製作したことにあると思われるが、その他の細かい工夫もあったようである。たとえば、帆布の縁部分に、経糸を1本構成にすることで織り目を詰めた「耳」を作ることで、ほつれを防ぎ、ロープをしっかり止められるようにした。
松右衛門の発明は、巨大な材木を筏に組んで運送する方法や築港工事のための石釣り船など、直面した問題を解決する目的のものが多く、世の役に立ちたいという思いが発明を生み出す動機の根幹にあったという。松右衛門帆の技術も惜しむことなく人に伝え、他人が儲けるのを見て喜んでいたらしいが、
「松右衛門の思想と意図が、この帆を世にひろめて船乗りの難渋を救うというところにあった以上、
よろこぶのが当然であったろう。」
と、司馬遼太郎著「菜の花の沖」にある。
ちなみに、いまもお歳暮などで重宝されている新巻鮭も、松右衛門の発明なのだそうだ。
当時の松右衛門帆はどのように使用されたのか?
松右衛門帆は、2尺半(約75cm)という、当時では画期的な広さの幅を持つ帆布であったが、それでも実際に航海に使用する際には複数の帆布を連結させる必要があった。
その連結には、隣り合う帆布の縁の全てを縫い合わせるのではなく、縁の全長にわたってステッチを施し、そのステッチ部分をある程度の間隔をあけて綱で結び付ける方法(下の拡大写真を参照)が採用されている。
帆布の滑脱(かつだつ・・・ほつれのこと)を防ぐと共に帆布の間の隙間に風を通し、強風に対する耐性が高められるようにした工夫であると思われる。
このような工夫にも、熟練した船頭であった松右衛門の経験が活かされているのかもしれない。
いまの世の松右衛門帆はどのように使用されているか?
工楽松右衛門が230年前に発案した織り構造に播州織の「先染め」の技法を加えて織り上げられた新しいタイプの帆布を素材として、様々なタイプのバッグ・袋物類が製作されています。
少しだけですが、以下に写真でご紹介します。
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取材協力
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同協会 理事長 柿木 貴智 様
神戸芸術工科大学 教授 野口 正孝 様 (芸術工学部 ファッションデザイン学科 主任)
兵庫県立歴史博物館 様
参考文献
司馬遼太郎著「菜の花の沖(二)」(文春文庫)
高砂市教育委員会 編集・発行「風を編む 海をつなぐ 工楽松右衛門物語」
「高砂市の概要」(高砂市役所ウェブサイト)
「高砂市紹介」 (高砂市観光協会ウェブサイト)